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ビクトリア。。

8月12日
 B&Bからシュワルツベイまでロバート氏に送ってもらいしばらくフェリーの出航を待つこと小一時間。結構早く着いたので待合所もガラガラ。コーヒーを飲みながら港の景色を眺めていました。しばらくすると人々が集まりだし待合所も一杯になりました。
ソワード 003 
到着したフェリーがでかい。写真で見ると分かりますがトラック、バスなどは下の開口部、二階の開口部からは普通車が続々と上陸してきます。見ているとフェリーの喫水線が上昇していくのがわかる。人々も続々と通路を通って上陸してくる。すべて出尽くしてから乗船。ビクトリアのスワルツ湾まで1時間半ほど波も穏やかでフェリーは揺れることもなく巨大なビルの中にいるようでした。
5階まであり全てのフロアーは人でいっぱい。
いざ出航・この日は薄曇りでした。

 ツワルツからビクトリアのダウンタウンまでバス。ここでも長い行列。バス停には二階建てバスが止まっていました。あれに乗れたらいいがこの行列では無理だなと思っていると案の定7~8名手前で定員オーバー。バスの運転手が20分すれば後続が来るとアナウンスして二階建てバスはユラユラ揺れながら走り去りました。
 私たちの前に女子大生風の一団がいました日本語で会話していたので夏休みで旅行中といったところでしょう。全員がすべてスマホを見ている日本でよく見かける光景ですが他の外国人観光客は誰一人スマホを見ている人はいない。そういえばバンクーバーでスカイトレインに乗った時の乗客も街中を歩いている人もスマホを見ているなんて人は誰もいなかった。この女の子たちは会話の様子からバスの路線を調べているようでしたが行列の脇に路線表示板あるのに見向きもしない。読めないのか?
 新しくバスが来てもああでもないこうでもないと全く動く気配がないのでこの集団をスルーしてバスの運転手にビクトリアのダウンタウンまで行くことを確認、一日乗り放題パスを購入して座席に着きました。その間ほかの乗客も次々に乗り込んできました。
 ダウンタウンまで一時間以上かかりました。路線バスの旅。着いた先はインナーハーバー。

1700年代にヨーロッパ人が入植するまでは、先住民族の海岸サリシュ族の居住地域であった。1843年ハドソン湾会社の手によって作られたフォート・カモザン(Fort Camosun)が起源。のちにフォート・ビクトリア(Fort Victoria)と呼ばれるようになり、1849年、バンクーバー島がイギリス植民地となってからはその首都となった。1858年にブリティッシュ・コロンビア本土に金鉱が発見されると、その補給基地として発展。1866年に本土のブリティッシュ・コロンビア植民地と統合されても、ヴィクトリアは首都の地位を保った。1871年、ブリティッシュ・コロンビア植民地がカナダ自治領に加入してからは、ブリティッシュ・コロンビア州の州都

1933年昭和8年)にカナダのバンフで開かれた太平洋問題調査会会議に、日本代表団団長として出席していた新渡戸稲造はこの地で倒れ、10月15日に71歳で永眠している。~Wikipediaより  

 イギリス人たちが最初に上陸した場所。ビクトリア州議事堂が立派。周囲の景観も見事でした。

 ここには各時代の戦争で亡くなった兵士の記念碑が建てられていました。第二次世界大戦はもとより朝鮮戦争、湾岸戦争などカナダはこんなにも多くの戦いに兵隊を送っていたのかと驚きました。知らなかった。ちなみにビクトリアは岩手盛岡市と姉妹都市。これも知らなかった。
ビクトリア1 002  ビクトリア1 004 
議事堂       二人でパチリ

 何はともあれ腹が減った。港湾内にある案内所で帰りのフェリー時刻表を貰い妻が行きたがっていたブッチャートガーデンへのバスを確認した後すぐ隣にあったレストランで腹ごしらえしました。
 75番のバスで再び路線バスの旅。
ブッチャートガーデン 001  ブッチャートガーデン 004  ブッチャートガーデン 010  ブッチャートガーデン 009  ブッチャートガーデン 006 

s-ブッチャートガーデン 011  ブッチャートガーデン 012

オンタリオのオーウェンサウンドに住んでいた、セメント製造業者のロバート・ブッチャート(Robert Pim Butchart)は石灰石の採石場を求めてカナダ西海岸に移り、1904年に採石場近くに邸宅を建てた[2]。妻のジェニー・ブッチャートの発案で、横浜出身でビクトリア市で人気になっていた日本人造園家、岸田伊三郎(当時65歳)によって1908年頃、邸宅に作られた日本庭園は人気を集めた[3] 。1909年から採掘の終わった採石場跡を庭園として整備して Sunken Gardenとして、1921年に完成した。屋敷を"Benvenuto" (イタリア語で歓迎の意)と名づけ、庭園に客を迎えた。1926年にテニスコートをイタリア式庭園に変え、1929年に家庭菜園をバラ園に変えた。1939年に21歳になった孫のイアン・ロスに庭園は贈られ、ロスは没するまでこの庭園の運営や宣伝に従事した。 ~Wikipediaより

 東京ドーム5個分の広さということでテクテク歩く。最後にたどり着いたバラ園で休憩。アイスクリームを食べました。少し甘みが日本とは異なる、私には少々甘すぎるバニラでした。以前アメリカで食した甘みはゲッとくるぐらい甘すぎたがそこまではいかない。
 帰りのフェリーは午後7時出航なので5時にはバスに乗らなければならない。とにかくこの日はバス旅が長かった。一日中バスに乗っていた気がする。一日乗り放題パスが便利でした。
 午後8時半過ぎに到着することをフェリーの船着場ツワルツからロバート氏に電話。この公衆電話、日本の感覚でロバート氏から手渡された名刺の番号をそのままダイヤルしてもつながらない変だなと思い公衆電話のかけ方を確認すると地域番号を付けてからダイヤルしないとかからない。地域番号1とある。1の後に名刺の番号をダイヤルすると直ぐにつながった。電話は25セント、四枚入れてあっという間に落ちていきました。
 ビクトリアの夕日 004 ビクトリアの夕日



 シュワルツベイではロバート氏と山本さんが出迎えてくれました
帰りの車中「薬を買うからリカーショップに寄って。」と頼むと山本さんが運転しながら「何の薬?」
私が「寝るための。。」と言うと「寝る⁇」首をかしげます。「ビールだよ。」後部座席からロバート氏。ということでB&Bからほど近いリカーショップに寄ってもらいビールを購入。
 リカーショップ入り口近くに小銭をせびる男がいました。そういえば日本では死語になっている乞食、何人か見ました。ビクトリアでも綺麗な繁華な街並みに灰色の毛並みの薄汚れてぐったり伸びた犬を抱いたこれもぐったりとした男が帽子の中に小銭を貰っている姿がありました。人よりも犬が哀れに思えてしまいました。
この日はビールを飲んでぐっすり。

暮らしの中の合気道
合気道 小山田道場


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