懸案の昭和記念公園の。。

昭和記念公園 034
サギ草祭りに行きました。園内が広いので自転車でサイクリング。しばらく続いている雨の晴れ間で気持ち良かった。湿地に咲くサギ草は可憐でした。

昭和記念公園 024
日本庭園では池の筏にのっています。

昭和記念公園 029
お、滝まである。

昭和記念公園 022
ちょろりと出て来たトカゲ。シッポの色が違うのでどこかで切り落として再生中なのでしょう。

合気道 小山田道場

昨日PCに。。

不具合が発生しあれやこれや修復作業を試みるも駄目、さてはと思い斜めにして叩いたら直りました。昔の白黒テレビやラジオと同じか?朝、TVを見ていたら大阪の神社でお百度を踏む大勢の老若男女が紹介され人間の今も昔も変わらない姿がありました。家電の扱いも今も昔も変わりないかと妙に納得しました。

合気道 小山田道場

八幡山で。。Gフォースプロデュース、「氷雪の門」の芝居を観ました.。

250px-Hyousetsu_no_mon[1]
北海道稚内市の稚内公園内「氷雪の門」日本領土だった樺太で亡くなった日本人慰霊碑。

以下、長いですがウィキペディアから芝居のお話になる事件のあらましを引用します。

「1945年8月9日にソ連が対日参戦し、8月11日から樺太へもソ連軍の侵攻が始まった。8月14日に日本はポツダム宣言受諾を決め、8月15日に玉音放送で国民にも公示されたが、樺太ではソ連軍が侵攻を止めず戦闘が続いた。

1945年8月10日、樺太庁・鉄道局・船舶運営会・陸海軍等関係連絡会議で、樺太島民の緊急疎開要綱が作成され老幼婦女子、病人、不具者の優先的輸送計画が決定された。

8月12日、札幌に樺太庁北海道事務所が設置され、翌13日、大泊港から第1船(宗谷丸606名)が出帆した。一方、真岡町を含む西海岸方面の疎開者は15日、真岡港から海防艦(能登呂)、漁船等で出港するなど、島民の北海道への緊急疎開が開始された。

8月16日、真岡郵便局長は豊原逓信局長から受けた「女子吏員は全員引揚せしむべし、そのため、業務は一時停止しても止を得ず」との女子職員に対する緊急疎開命令を通知し、女子職員は各地区ごとの疎開家族と合流して引き揚げさせることにした。電話交換業務は女子職員の手により成り立っており、引き揚げ後の通信確保のため真岡中学の1~2年生50人を急ぎ養成することで手筈が決められた。一方、同日真岡郵便局の朝礼で主事補の鈴木かずえにより残留交換手に関する説明がなされた。主事補は緊急疎開命令が出されて職場を離れる交換手が出ている現状を話し、仮にソ連軍が上陸しても電話交換業務の移管が行われるまでは業務を遂行しなければならないと前置きし、残って交換業務を続けてもらえる者は、一度家族と相談した上で、返事を聞かせてほしい旨を説いた。鈴木の言葉に誰もが手を挙げ、声を出して残る意思を現した。これに対し鈴木は、本日は希望者を募らないとし、一度家族と相談の上で班長に伝えるよう指示。後日希望を聞くと告げた。

8月17日、電話担当主事が「全員疎開せず局にとどまると血書嘆願する用意をしている」と、局長に報告したため、局長はソ連軍進駐後生ずるであろう事態を説くとともに説得にかかったが、応じてもらえなかった。最終的には、局長が豊原逓信局業務課長との相談で、逓信省海底電線敷設船(小笠原丸)を真岡に回航させ西海岸の逓信女子職員の疎開輸送に当たらせる了承を得たので、同船が入港したら命令で乗船させることとし、20人だけ交換手を残すことになった。しかしこの計画は予想以上に早いソ連軍の上陸で日の目を見なかった。

先に引き揚げた交換手は、疎開命令が出た後もみな「(通信という)大事な仕事なのでもう少しがんばる」と言い張ったが、局長からは「命令だから」といましめられた。そして公衆電話から電話交換室に別れの電話をかけると、「頑張ってね」「そのうち私達も行きますからね」「内地へ行ったらその近くの郵便局へ連絡してすぐ局へつとめるのよ」と残留する交換手たちからかわるがわる励ましの言葉をかけられた。

なお、近年作家の川嶋康男が著書で残留要員選定を命じられたとする斎藤春子の証言があるとしている。が、後述のように時期が版ごとに変わっていたり、最低必要人員だとする人数を切っても何人もあっさり引き揚げが認められていたと、記述に辻褄の合わない点が多い。川嶋によると斎藤は昭和20年のある日(具体的な日付は不明。また月も「一瞬の夏」では8月、「永訣の朝」では7月と記述が異なる)、上田局長に最低でも24、5名の残留要員を選考するように命じられたという。だが、その後残留交換手を募る目立った動きはなく、斎藤は立ち消えになったのかと思ったという。なお、斎藤は同時に残留組が24、5名となった後にも引き揚げの申し出を受けて自分が二人を残留組から外したとも証言しているという。また、そこからさらに斎藤自身が残留組から外れることとなる。斎藤は妹・美枝子とともに残留組に志願していたのだが、母親は上田局長に、娘二人を預けたままでは引き揚げられない、一人は連れて還りますと電話をかけた。18日に上田局長に呼び出された斎藤は電話の旨を知らされ、「美枝子さんと二人で相談してどちらか一人引揚げるようにしてください」と告げられたという。斎藤姉妹は互いに自分が残ると押し問答を繰り返したのち、姉である斎藤が諦め、引き揚げることとなった。

また、川嶋は希望者がいない場合は責任番号順(交換手の経験年数によって付けられる番号順)に残るよう主事補から聞かされたとする証言(葛西節子)もあるとしているがこちらも事実と食い違っている。最終的に決定した残留交換手20名は比較的経験年数の少ない10代の交換手が多くを占めていた。20名中10代が全部で何人だったかは不明だが、8月20日当時の高石班11人中6名が10代であり、上野班にも少なくとも1名10代の女子交換手(藤本照子・当時17歳)がいた。また、前述の斎藤春子は昭和8年入局の古参交換手であるが、前述の通り残留交換手が24、5名からさらに絞られた後に引き揚げ組に加わっている。

8月19日朝、非常体制が敷かれる。電話・電信業務は、昼夜を通して行われるため、通常3交代制であたっていたが、この時から非常勤務体制となった。電話交換手の夜間勤務は上野主事補を班長とする上野班と、高石主事補を班長とする高石班に分けられた。

8月19日午後7時過ぎ、電話交換手は夜勤体制になった。この夜、当直の電話交換手は高石班長以下11名の女性であり、この他に、電信課には、電信主事・平井茂蔵を筆頭に、職員7名の男女(男性5名、女性2名)が勤務していた。

8月20日早朝。ソ連軍艦接近の報告が入ると、高石班長は郵便局長・上田豊蔵に緊急連絡したのを始め、局幹部に緊急連絡を行った。緊急連絡を受けた電話主事・菅原寅次郎は電話交換手・志賀晴代に出勤を求め、電話交換手は12名となった。非常事態に際し局員たちは郵便局へと向かったが、上陸したソ連軍の攻撃は激しく、民間人に対しても無差別攻撃が加えられた。電信受付の折笠雅子は郵便局へ向かう途中射殺され、避難先の防空壕に手榴弾を投げ込まれて爆死した局員などもいた。上野班の交換手だった藤本照子も「決死隊の一員として、空襲の時はすぐ郵便局へ行くことになっていたのですが、ソ連兵がどんどん上陸し始め、実弾が飛びかい、とても無理でした」と語っている。上田局長も郵便局へと向かったが、栄町二、三丁目の十字街で避難民が背後から撃たれて山膚を転げ落ちるのを目の当たりにした。十字街には局長の他5、6名が釘付けされていたが、そのうち真岡署木村巡査部長が弾丸の中を駆け出し、局長の目の前で撃たれて倒れた。局長と由田与三吉は、巡査部長を家の陰に引きずり込もうとして路上に飛び出し、局長は左手に貫通銃創、由田は右足に盲管銃創を負った。局長は由田らと図り、若い男性に棒の先に白布を縛り付けさせ、ソ連兵の目に触れるように振らせた。これにより、局長らは助かったものの、直ちに海岸の倉庫に連行された。

緊急連絡からおよそ1時間後、ソ連軍艦が真岡港に現われ、2艘の舟艇が上陸を試みる(ロシア側資料によれば、上陸開始時刻は午前7時33分である)。ソ連艦隊から艦砲射撃も始まった。真岡上陸作戦についてソ連側戦史は「今やソ連軍の任務は、いかに迅速に樺太南部地区を占領して日本軍隊とその物資財貨の本土引揚を阻止するかということにしぼられた」と述べていた。なお、艦砲射撃に至った経緯ははっきりしていないが、ソ連側が先に空砲を撃ったという点では、概ね一致している。実弾をソ連側と日本側のどちらが先に撃ったかについてはわからないとする証言・見解が多い。

この当時、真岡郵便局には平屋建ての本館と、2階建ての別館があった。電話交換業務は別館2階で行われていた。8月20日にソ連軍艦からの艦砲射撃が開始されると、真岡郵便局内も被弾するようになり、電話交換手12名は、別館2階に女性のみが孤立することになった。

高石班長が青酸カリで服毒自決、続いて代務を務める可香谷が自決(注意:自決の経緯については激しい銃砲火の中だったことや生存者が少ないことなどから、証言が錯綜しており、高石班長はむしろ若い交換手をなだめたとするものや、青酸カリを分け合って年齢の高い順に飲んだとするものがある)。この後、1人また1人と合計7名が青酸カリ或いはモルヒネで自決した。この間、電話交換手は、泊居郵便局、豊原郵便局などに電話連絡している。

この後、伊藤は、既に7名が自決し、自分も続くことを泊居郵便局に連絡。更に、蘭泊郵便局へも同様の連絡をした。この時点では、伊藤のほか境、川島、松橋、岡田の4名が生存していた。伊藤は、続いて、内線電話で電信課へ自決を連絡し、服毒。この時点で、松橋も自決をしていたので、殉職者9名、生存者3名となった。急の知らせを受けた電信課男性職員は、2階電話交換室へ急行し、境、川島の2名を救出し、本館へ移動させた。

一方、本館では、戦闘が始まって郵便局舎も被弾するようになり、被弾を恐れた女性達は、奥の押入れに隠れた。境、川島救出後暫くしてソ連兵が現われると、最初は男性局員のみが応対し、女性はそのまま隠れていたが、安全であると判断すると、救出された2名の電話交換手を含む4名の女性局員も姿を現した。金品の略奪はあった。その後、局員は港の倉庫へ移動した。電話交換手のもう一人の生き残りである岡田は、その後、港の倉庫に移った。

事件から10日以上経ってから遺体は仮埋葬され、12月に火葬・本葬が行われた。」

映画にもなっていることは知りませんでした。芝居は八幡山のワーサルシアターという小さな芝居小屋でしたが演出と舞台構成が良いため舞台の狭さを感じさせずテンポの良い感動的な芝居。舞台上を流れる音楽も効果音もライティングも良かった。ユリの花が咲いていなくとも観客に咲いているように見せる演出と芝居は観客とのイメージのやり取りだなと思いました。ずっと以前、芝居には小道具が皆そろっているもんだとばかり思っていた時期があり初めて何もない舞台で役者だけが演じる姿を見て驚いた記憶があります。なくてもできるんだと感激もしなるほどこれなら費用が掛からないと思ったものです。映画やテレビと異なり視覚に訴えなければ成り立たないメディアとは全く違うジャンルだとこの時知りました。ちなみに今回の芝居をプロデュースしたGフォースは合気道仲間でもあり、役者、演出家、プロデューサーを兼ねる後藤宏行氏が主催しています。役者募集もしていますので興味のある方はどーぞ。

さて、観終わって思ったことは、この世に何も思いを残さず死ねれば楽だな、ということ。惨禍に巻き込まれるのは時の運だとしても毎日、一瞬一瞬に満足をおぼえられ、いつ死んでもいいくらいの生きる覚悟があれば何も恐れることはない、とは思うものの難しい。ともあれ、戦争にしても自然の災害による惨禍にしても極力回避できる知恵が必要なのだろう。後の祭りでは死に往く者も、見送る者もこの世に未練、思いを残すことになる。

合気道 小山田道場

昨日、お泊り稽古から。。

帰ってきた。曇りのち雨、のさえない天候だったがその分涼しかった。場所は猪苗代湖。宿泊先は「ほりい荘」
この宿泊地に土津(はにつ)神社があります。初代会津藩の祖 保科正之が祭られています。会津のお留技として幕末時の家老、西郷頼母が大東流合気柔術を武田総角に伝授。これを学んだ植芝守平翁が合気道を創始。塩田剛三先生は植芝守平翁から合気道を学び養神館を創始しました。実に因縁のある神社です。正之の遺言により猪苗代湖と磐梯山が見える高台にありますがこの日は見えませんでした。

005o.jpg
少し早目についたので猪苗代湖畔に出てみた。曇天にもかかわらずキャンプする人々が湖畔で遊ぶ。

009o.jpg
磐梯山が雲間から覗いていました。

004o.jpg
湖面では水上バイクが走り回っていました。晴れていれば観光写真のような風景でしょう。

第一日目の稽古は、体の変更(1)(2) 肩持ち一か条抑え(1)(2) 変化の太刀一本目、普段稽古しない内容を行いました。

第二日目、臂力の養成(1)(2)、肩持ち二か条抑え(1)(2)、肩持ち三か条抑え(1)(2)、肩持ち四か条抑え(1)(2)、肩持ち側面入り身投げ(1)(2)、変化の太刀二本目と三本目。「始め稽古」を含めて午前、午後と稽古。この日は近くにある「地ビール館」に行きたいとの要望があり予定を繰り上げ、また汗を絞っておくというビールを美味くする稽古を展開。

015o.jpg
ここがその地ビール館。雨が降ったりやんだりの天候にもかかわらず人が大勢。「世界のガラス館」が併設してありガラス達が宝石のようでした。

011o.jpg
一杯目のビールがこれ。美味かった。六種類くらいありましたがさすがに全部は飲めない。ガーリックポテト、生ハムで乾杯しました。

002o.jpg 014o.jpg
前面全てが窓でカウンター席になっています。カウンター席は埋まっていたので近くのテーブルで、磐梯山を肴にビールが飲めるはずですが、残念。

第三日目は肩持ち一か条~側面入り身投げの復習。変化の太刀四本目と五本目を稽古して通算8時間以上の稽古を終了。痣もできて筋肉痛、皆さんお疲れ様でした。キッチリ稽古した二泊三日となりました。

帰りは会津若松、鶴ヶ城に寄りました。

018o.jpg
鶴ヶ城天守閣。

019o.jpg
会津の観光キャラクター「お城ボくん」

022o.jpg
天守入口には若松城とある。

032o.jpg
天守から望む磐梯山。

041o.jpg
鶴ヶ城とパチリ

腹ごしらへのために観光案内所で聞いた会津ラーメン「くるくる亭」で昼食。

044o.jpg
地鶏ラーメン。美味かった。人気の店らしく私達が入店中、行列ができていました。地鶏の焼けたおコゲがスープと絡まると正月の雑煮のおこげとスープの味でした。醬油ベースのあんかけ風ラーメンにこんがり焼けた地鶏がのっています。麺は平打ち。

047o.jpg
ご当地B級グルメの「カレー焼きそば」ソースの代わりにカレー粉で炒めるものかと思っていたら、カレーそのものが掛かっていました。おっとビックリ。これもありかな、でした。餃子も美味かった。

その後、磐越道から東北道を辿り東京へ。。

追記:自宅へ帰ってニュースを見て驚いたことは中部、近畿地方が大雨の災害で酷いことになっていたこと。
宿泊した地元の人は夏に入って三日くらいしか晴れてないよ、お泊りの間の天気がずっと続いているとのことでした。
この辺り、スキー場が多いので冬にはスキー客が来るんでしょうね、と聞くと、誰がこんな寒いところに来るもんか、と宿屋の主人。住むのとレジャーは違うから、冬には居たくない、が本音なのでしょう。

合気道 小山田道場



紀尾井会に行ってきた。。

今日は長男がパティシエをしているホテル・ニューオータニのファミリーフェスタに行った。紀尾井会という社員の家族を集めて年に一度の会。長男は現在、幕張で仕事をしている。道場開きの時にはプチケーキを作ってふるまってくれました。今年で創業50周年を迎えたホテルは行くたびに思うけど大きい。ホテル内で迷ってしまう。実際帰りの来た道が分からずウロウロするうちに日本庭園に出てしまった。大地を圧する蝉しぐれが鼓膜を叩き、台風一過の日差しが肌を焼く。
紀尾井会 003
大きな鯉が何匹も泳いでいました。庭園の手入れだけでも大変だ。写真には次男がどこかに映り込んでいます。
紀尾井会 010
滝まであったのには驚いた。人工物の建物の滝の流れから、瀬が形成されて自然の生態系ができているらしい。自然というのはほっておけばどこにでも侵入してくる。
フェスタの目玉は何といっても食事会。普段は食さない否、食せないものを食べるのです。演芸会には風船パフォーマーが子供たちを喜ばせ、また若手お笑い芸人が出ていました。トリはナイツでした。おもろい連中です。以前は魔術師のセロが出ていたり意外と豪華なイベント。
そうだ、忘れてはならないこと。M78星雲、光の国からから初代ウルトラマンが来ていました。
紀尾井会 001
撮影会をするウルトラマン。3分以上いたのにカラータイマーは点滅していませんでした。スぺシュウム光線のポーズ、実際に発射されたら危ない。アイスラッガーは安全のためか固定されているようでした。もし不用意に落ちて当たったら、怪獣を真っ二つにしてしまう威力は怪我だけではすみません。あれ?アイスラッガーってセブンだっけ。。

合気道 小山田道場

サギ草が。。

満開になったので写真を撮っていると。。
サギ草 008

そこへ出て来たチーちゃん。
サギ草 004
何撮ってんの。僕も撮って。

そこで。。
サギ草 005
チーちゃんとサギ草。

サギ草 002
昭和記念公園では31日迄、サギ草祭りを行っているようなので見に行こう。

合気道 小山田道場

香取神宮へ。。

昨年新道場を建設した折、稽古生の有志が鹿島神宮の大きなお札を頂いて来た。香取神宮のお札と対にするため昨日出かけた。道場のお宮の中のお札は両神宮からご祈祷と共に頂いて来たがお宮の外は向かって右に鹿島のお札だけで片手落ちの気がしていた。ウナギと温泉を前後に挟んでの日帰り。首都高は相変わらずの込み具合でしかも暑い。二時間以上かかって着いた先は。。

002a.jpg
鰻の長谷川。天保二年(1831年)創業というから183年続く老舗。天保二年8月には良寛が死去、天保4年から大飢饉が始まる。こちらは飢饉の始まる前にまず腹ごしらえ。

004.jpg 007a.jpg
これがそれ。ひさしく鰻は食してなかったので嬉しかった。肉厚でほこほこ、きっとマリアナ海溝の深海で幼生時代を過ごし、利根川、坂東太郎をさかのぼって今ここにあるのだなと思うと感慨無量。東京のうな重と異なるのはタレではなく醤油ベースの塩味。特上なら肝吸いなのだが上うな重はそうめんの入った吸い物で程よいお味。漬物は白大根と沢庵でした。

005.jpg 006.jpg 
いただきま~す。まずはお吸い物。

このお店はかなり繁盛しているようで私たちが入店した時には既に20名ほどのお客さん。回転率が良くお客さんが次から次に出ては入ってくる。特上、上、並とあるがたいていは上を頼む人が多い。売りたいモノは真ん中に置けというのは経営の基礎で松竹梅とあれば竹を選ぶ心理。選択肢の多いものはぺけ。三つの中から一つがベストなんだろうなとあらためて思いました。

さて、本題の香取神宮。
012.jpg
去年来た時には式年遷宮に併せて一部工事中でしたがすっかり綺麗に化粧替えをしていました。屋根がすっかり葺き直されて床屋さんから出て来たばかりのようでした。

020a.jpg
これでようやく対になりました。

余談ながら。。
010.jpg
本殿に行く途中、 飯篠長威斎家直(いいざさちょういさいいえなお)のお墓に遭遇。この人は室町中期、三大流派の一つ天真正伝香取神道流の祖。
ここから鹿島神道流、中条流などの流派が育っていったようです。お参りをして交信してきました。明治40年の剣士達の銘の刻まれた灯篭が建立されていました。

017.jpg
香取神宮境内、三本杉の真ん中の洞。。左右二本は立派すぎるほど大きかった。。

この後は車で40分程の所にある温泉へと田圃を左右に見ながらひた走り着いた先は。。
018.jpg
かりんの湯。成田東CCのそばにある天然温泉。目の前が民宿でしたが他には何もない。風にあおられて駐車場の砂塵が舞っていました。昨年掘り当てた温泉のようです。夏向きにしてあるのか露天風呂の湯温は熱くもなく冷たくもなく人肌。
青く、白い雲の漂う夏の空を見上げてしばしの解放感とまどろみ。肌に吹く風が気持ち良く暫し桃源郷を彷徨いました。
湯上りには苺のカキ氷と決めました。夏の温泉は長くは入っていられなくて出てみると妻はすでに苺ミルクのカキ氷を終わるところでした。地産の南瓜、ゼリー、飲むヨーグルトなど車に積み込み一路家路へ。。

また、首都高が混むんだわ。

合気道 小山田道場



暑中お見舞い。。

002.jpg 
やっとサギ草が咲いた。なるほど鷺が飛んでいるように羽を広げています。特定の虫を呼び寄せるサインだろうか面白い形です。他の花に遅れること一か月ほど。ひたすら毎日水をやり続けても何の変化もなく、気が付くとスルスル茎が伸びていました。上から見ているのでその変化が分かりにくかったこともありますが2,3日前に蕾ができてスッと咲きました。純白なすがしい姿です。
028.jpg
ゴールデン・クレストは少し大きくなったかな、あまり変化を感じられない。毎日見ていると逆に気が付かないこともある。以前の写真と比べると確かに成長している。コツコツ育っています。隣から覗くフェリカは一気に花を咲かせました。
013.jpg
周囲に向かって自己主張のフェリカ。夜になると、おとなしく蕾に戻ります。

合気道 小山田道場